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【俺がピだ】水無月

「親太朗」
二十歳の夏の話である。
ヒッチハイクで日本中を旅していた私は、その日福井県にいた。
その日の前の晩、私はとある城跡で過ごした。城の説明看板に、「この城垣を建てるとき、村の女性が人柱となった」というような事が書いてあって、怖くてなかなか寝付けなかったのを覚えている。
福井県では東尋坊を見学しようと思って、明るくなると城跡を出てヒッチハイクしやすい道を探して歩き出した。
なかなか良いヒッチハイクポイントが見つからず歩いていると、目の前で1台の車が停まった。
私はバックパックに「乗せてください」と書いた看板を吊るしていたので、ヒッチハイクをせずとも乗せてもらえることがあった。
中から降りてきたのは、俳優の山田親太朗くんに似た年上のイケメンだった。
親太朗は「ヒッチハイクか〜!どこまででも乗せてやるぜ〜!フゥ〜!」と、朝からなぜかやけに陽気で、私は少しおののいた。
車に乗り話を聞くと、どうやら親太朗は夜勤帰りで気分が良いらしい。私が今日は東尋坊を目指していると言うと、なんとそこまで乗せてくれることになった。
そういえば旅の間はご飯とかどうしてるの?という話になった。
当時私はあまりお金を持っていなかったので、1日3食という概念は捨てお腹が空いたらその場でなんとかするか我慢するというスタイルだった。
それをそのまま話すと、親太朗は「じゃあ日持ちする食材を買ってやらぁ!」と、急に方向転換しスーパーに車をねじ込んだ。
私を車に残し、ちょっと待ってろ!と一人店内に走って行った親太朗。これは脚色ではなく、本当にこのくらい元気な男だったのだ。
スーパーから出てきた親太朗は、両手にそこそこ大きい買い物袋をぶら下げていた。
親太朗は、旅の非常食として、大量の缶詰とパウチの汁物(パスタソースとかカレーとか)、それに2リットルのポカリやアクエリアスを買って来てくれたのだ。
こういう施しは当時本当にありがたく助かっていたが、私はヒッチハイクをしていない時はほとんど歩いているので、この量の荷物が増えたことは少し厄介で、かつ、どうせ買ってくれるなら自分に選ばせてくれよと思うのだった。
しかし、買ってもらっていて文句は言えない。
私も元気に「ありざす!助かります!」と、お礼を言うしかないのだった。
機嫌が良くなった親太朗は、早速スーパーで自分の分として買っていたチューハイを飲み始めた。当たり前のように飲酒運転である。
もともと酔っているような男だったので、そうゆう人間は飲酒運転してもよい、という法律に変わったのかしら、と思うことにした。旅をしているとはいえ、ニュースはときたま見なきゃいけない。
その頃の私は、ヒッチハイクで危ない目に何度も合っていたので、もはや飲酒運転など何とも思わずそのまま進んだ。
そして特に捕まったり事故を起こすことなどなく、あっさりと東尋坊に着いたのだった。
親太朗を礼を言い車を降りると、もともとパンパンだったバックパックに親太朗からの施し食材が入るはずもなく、私はそのまま両手にスーパーの袋を持って旅を続けた。
もちろん、東尋坊の見学にそれらは邪魔だし、ペットボトルはまだしも缶詰を食べてもゴミの缶がかさばるだけだった。
福井に行ったら東尋坊を見よう!と楽しみにしていたものの、この荷物の重さと動きづらさ、それに暑さで、私は東尋坊の見学など早く終えて身軽になりたいと思うばかりであった。
仕方なく東尋坊をふらっと流し見し、すぐにヒッチハイクを始めた。
荷物が重くて歩くことが大変だったので、東尋坊へ入る道のすぐそばでヒッチハイクをした。
そこで乗せてくれたのは、京都へ向かう渡辺さんという50代くらいの男性だった。
渡辺さんと滋賀で温泉に入り、琵琶湖沿いを眺め、それからそばをごちそうになった。
渡辺さんは、最近単身赴任で京都に来たと言った。
私はしめたと思い、事情を話して親太朗の食材を引き取ってもらった。
単身赴任の身に、缶詰やパウチカレーなどは役立つだろう。
京都駅で渡辺さんと別れ、身軽になった私は再び本来の旅に戻るのであった。
さて、そんなオチもなにもない1日だったが、私は長い旅の中でもこの親太朗という男がものすごく印象に残っている。
どうか親太朗には、捕まる前に、飲酒運転をやめていてほしいと願うばかりである。
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