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「日常とpoésie. 」 December

「エモい」と言うと、いつも何それと笑われる。わたしは「今のよかったね、みたいな意味だよ」とか、てきとうにこたえている。
英語のemotional──「感情的な」という意味の形容詞──を由来とするスラングの「エモい」は、感情が動いたときや、哀愁的であるとか、趣があるとか言いたいときに使われるのが一般的なのだという。
日常における映画のワンシーンみたいな一瞬や、もう二度とないかもしれない機会、偶然がかさなって見ることができたすてきな光景などを、わたしはできるだけ正確に、ずっとおぼえておきたいのだけれど、それを瞬時に言葉にするのは思いのほかむずかしい。だからひとまず「エモい」を置く。そのポップなスラングを、わたしは忘れたくないことたちにつけるラベルのようなものとして、日常的に使用している。
すぐには言葉にできない、すばらしいできごとたちの余韻は、そうしてラベルをつけようとするとき、いつもわたしを安心にした。
たとえば、不安定な気持ちになってしまうとき。何かあかるいことを思い出したほうがいいと思うし、思い出せることがあること、それ自体が救いになりうると思うからだ。
記憶にラベルをつけることは、実体のないお守りがどんどん増えていくみたいに思える。
けれどわたしは、友だちにもらった小さな山羊のフィギュアの胴体に赤と金のリボンがむすばれていたことや、映写機の調子が悪くてあかるくなった映画館の奇妙さや、観覧車に向かって飛んでいく風船がきれいだったことなんかを、どうやっておぼえておくというのだろう。
外国土産の古い缶に入っていた虹のことは、パースと繋いだ国際電話は。夜の動物園と、ハーモニカのことは?
それらはここひと月ほどで、実際にわたしが書き留めた“エモい”だ。あまりに個人的すぎるし、当事者以外にはきっと何の意味も持たず、居合わせたひとすら忘れてしまっても不思議じゃない。
わたしにさえ、それはいつか風化する、忘れたことすら忘れられる種類の記憶に思える。
忘れてもきっと困らない。
でも、何もかもをおぼえている今この瞬間、それらをなくすのが怖いから、わたしは日記を書き続けているのだろうと思った。
全12回、一年にわたったこの連載は、その最たるものだったのではないかと思う。一度ラベルをつけた記憶を取り出すことと書くという行為のつながりはわたしを救い続けたし、「書く」ことについて個人的な、けれどいちばん有効な理由を見つけることもできた。
わたしは、日常にエモい瞬間──思えば詩、ポエジーととてもよく似ている──を見つけて、それについて言葉を紡ぎ続けられる。それをし続ければ、記憶装置は、きっと永遠に錆びないはずだ。
たとえば、不安定な気持ちになってしまうときに、何かあかるいことを思い出せるように。まわりにいるひとたちのぶんまで、何でもおぼえておきたいと思う。
web連載「日常とpoésie. 」は、これでおしまいです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
杉浦 真奈(Sugiura Mana)
旅する古本屋「古本とがらくた paquet」として活動中。植物図鑑と古い料理本が好き。
「ほぼ月刊ぱけのこと」というフリーペーパーをつくって配っています。
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