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「日常とpoésie. 」 September

夜勤のある仕事をしていた時期があって、それは本当に短い期間だったのに、どういうわけか高い頻度で思い出すので不思議に思う。
二十四時間稼働しつづけている製菓工場ではいろいろな国のひとがはたらいていて、何か問題が起こって製造ラインが止まるたび、ものすごい勢いで何語かもわからない外国語が飛び交ったこと。(何を話しているのかはわからなかったが、それはたいていただのお喋りのようだった。)
日本人のアルバイトはわたしを含め皆ほとんど言葉を発さなかったので、わたしはいつも床にこぼれた粉砂糖のもようとか、隣のラインをながれていくケーキとかを見ていた。機械はどれもうつくしく、おおきくて銀色で、ぐるぐるまわる刃や、ローラーや、歯車がたくさんついていた。一番好きなのはできあがった商品をふくろに入れて口を閉じてくれる機械だったけれど、日毎に割りあてられる作業場の関係でわたしはそれをなかなか見ることができなかったので、見られる日はうれしかった。
思い出すことは、ほかにもいろいろある。
たとえば深夜の社員食堂。そこで食事をしたことはついに一度もなかったけれど、一度くらいためしてみればよかったと思う。いつも自販機でうすいコーヒーか、コーラを買って飲んだ。工場はとてもとてもひろく、作業場間の移動には十分以上かかることもあった。迷路のように入り組んだ通路を、いつも一人でぶらぶらと歩いた。壁には何メートルかおきに安全に関する標語が貼り出してあり、途中で辞めた学校の廊下に少しだけ感じが似ていた。
月を好きになったのは、たぶんこのころだった。
離れたところにある駐車場に車をとめて夜の道を歩いて行き、通用門をくぐるとき、紺色の空には月が出ていた。大きかったり小さかったり、黄色だったり銀だったりした。光っているときも、雲に隠されてにじんだように見える日もあった。道の途中には白いトタンでできた車庫のある家があり、なみなみしたトタンの壁の前のプランターには白い薔薇が咲いていた。わたしは毎日必ず、スタンプラリーをするみたいに、月と薔薇を見てから仕事へ行った。月とその薔薇は、とてもよく似ているように思えた。
仕事が終わって工場を出たら朝になっているのが日常で、学校に行く子どもたちの後ろを歩いて駐車場までの道を辿った。月は見えなくなっていて、薔薇は朝の顔。薔薇の花片は背景のトタンよりずっと白く、太陽の光に縁取られて眩しく見えた。月には全然似ていない。でも、夜のすがたを知っているから、わたしはあの薔薇を好きだった。通勤路に咲く、何も言ってくれない、他人の家の薔薇。夜に会うほうが、親密な感じのする。
家に帰って、眠って、目覚めるとまた夜になっている、月夜ばかりの、単調な、しかし忙しない日々だった。夜勤明けの眠りから覚めたあとの、世界から置いていかれているようなさびしさを抱えて歩く通勤路は、月明かりとあの薔薇が味方だった。
昼と夜が交互に訪れるようになった今でも、よく月を見る。三日月。半月。まんまるの月。クリアな日も、くすんで見える日もある。遠いところにあるおおきな光が夜にだけ届くなんて、これ以上ないくらいロマンティックなしくみだと思う。
月にはさわれないけれど、光にはさわれる。
あの薔薇みたいになりたいと思う。
杉浦 真奈(Sugiura Mana)
旅する古本屋「古本とがらくた paquet.」として活動中。植物図鑑と古い料理本が好き。
「ほぼ月刊ぱけのこと」というフリーペーパーをつくって配っています。
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