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「日常とpoésie. 」August

さくっとした旅行に、よく誘われる。
さくっとした旅行というのは、現地集合、現地解散の旅のことだ。わたしの友人には、ばりばりはたらいて年中いそがしくしているひとと、そうでなくてのんびりしているひとがいるのだけれど、さくっとした旅行に誘ってくるのは圧倒的に前者が多い。彼らはおそらく、わたしが定職についていないことを都合よく思っているのだろう。月に何度か旅商いのようなことをしながら、いつでもどこにでも行かれるためにいつも期限つきのアルバイトをしているだなんて自慢できることではないけれど、ひさしぶりのひとに会うときまって今どこにいるのか、何しているのかをきかれるので、一種のアイデンティティみたいになってしまっている。
さくっとした旅行では、たいてい昼間からお酒を飲む。大人になると、明日あそぼう、明後日もあそぼうとはいかないものだ。何人かで旅をするならなおさら、何ヶ月も前からスケジュールをみて休日をあわせる必要がある。そうやっていそがしい日々のなかを強行突破するみたいな旅に、夜はそう何回も来ない。ふしぎなことに前者の友人にはお酒に強いひとが多く、日本にはおいしいごはんとお酒が多すぎるということで、ランチにワイン、夕暮れにビール、夜に日本酒、みたいなことになる。
旅先の夜が深くなってくると、おとなになってよかった、という話をよくする。
わたしは偏食というか、食べずぎらいの多い子どもだったので、生魚も馬肉もシナモンも無花果もペペロンチーノも、大人になってからはじめて食べた。ほとんどはどこかのお店で、家族以外のだれかにすすめられて断るのも悪いかなと思い、おそるおそる口にしたのだ。昔は水族館にいる魚をこわいと思い、スーパーにならんでいる死んだ魚を気持ちわるいと思っていたくらいなのに、今はお刺身が好物だからわれながら現金だと思う。二十五歳を過ぎるまで一度も飛行機に乗ったことがなかったのに、今はひとのぶんまで航空券を手配したり、マイルめあてに航空会社をえらんだりもしてしまう。何か手違いがあって旅先で急に泊まるところがなくなっても、夜を明かす方法をいくつも思いつくことができる。
そんなことができなくても、というかべつにしなくてもいっこうに問題がないのだけれど、わたしはそういうことができるようになってから、人生が突然おもしろくなった。留学には行ったことがないけれど、もし留学をして英語が自在に話せるようになったらこんな感じかと思うくらい。一緒に旅をして、その短い旅行中に自分ではたらいて手に入れたお金をおもむろに使い、お酒で前後不覚になりながら「おとなになってよかったー!」といってわらっている友人たちは、そういう感覚が共通しているように思う。みんなべつべつの人生なのに、おなじ場所でおなじことを思えるのもおもしろい。
温泉なんかにつかってリフレッシュするような旅は、まだしたことがない。おおきな駅の改札やバスターミナルで現地解散したあとには、たいてい疲れている。したいことや見たいものをつめこみすぎるせいだ。それに、だれも喋らないのが寂しい。
列にならびながら、窓のそとを過ぎていく光を見ながら、おとなになってよかった、と唱える。バックパックの紐を弄びながら、ご当地キャラメルを舐めながら。寂しくなくなるまで唱える。家につくころには、平気になっている。
いつでもどこにでも行かれる、大人になったんだな、と思う。
杉浦 真奈(Sugiura Mana)
旅する古本屋「古本とがらくた paquet.」として活動中。植物図鑑と古い料理本が好き。
「ほぼ月刊ぱけのこと」というフリーペーパーをつくって配っています。
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